「開校五十年記念学習院史」の版間の差分
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− | 音樂部新設以來の狀況を略述すれば、新設の年に行ひたる行事の主要なるものは、洋琴家バルダス氏を招聘して、公開演奏會を開催したる事にして、當日の聽衆四百名に達し、極めて盛大に行はれたり。翌[[1925年|十四年]]には各種の計畫を立てゝ、彌本部の活動を開始するに至りたり。卽ち五月五日には、音樂に開する知識の普及に資せんが爲に、第一回[[レコードコンサート]] | + | 音樂部新設以來の狀況を略述すれば、新設の年に行ひたる行事の主要なるものは、洋琴家バルダス氏を招聘して、公開演奏會を開催したる事にして、當日の聽衆四百名に達し、極めて盛大に行はれたり。翌[[1925年|十四年]]には各種の計畫を立てゝ、彌本部の活動を開始するに至りたり。卽ち五月五日には、音樂に開する知識の普及に資せんが爲に、第一回[[レコードコンサート]]を催し、同月二十三日には提琴家ビルウスキー氏並に洋琴家ヂョンゲン氏の公開演奏會を行ひ、次いで六月十三日には、故三條實憲氏追悼一音樂會を行ひたり。此の日に[https://ja.wikipedia.org/wiki/東伏見慈洽 久邇宮邦英王]殿下並に[https://ja.wikipedia.org/wiki/李グウ 李鍝]公殿下も出演せられたり。かくて此の年度に本部の設備も漸く成り、蓄音機・ピアノ・ヴアイオリン・ヴヰオラ・セロ其の他の管樂器二三を購人し、茲に始めて組織的なる練習を行ふべき機關の備はるを見たり。[[1926年|大正十五年]]二月には客員岩井貞麿の斡旋によりて、陸軍戸山學校軍樂隊の演奏行軍の目的地を本院校庭とする事とし、五十名より成る軍樂隊と、二十人より成る喇叭隊との吹奏数曲を聽く事を得、翌三月二十四日には、有志者三十名戸山學校に赴きて練習の見學をなしたり。次いで五月十八日には、第二回レコードコンサートを催し、また十月二十四日には、本院出身の提琴家福井巖の演奏會を行ひ、秋季輔仁會大會當日には、始めて本部員の演奏を公開して好評を博したり。音楽部員の指導には、初め助教授[[小松耕輔]]、部長として共の任に當りしが、管絃樂の練習を開始するに至りて、星出陸軍戸山學校樂長補の指導を受け、更に[[1927年|昭和二年]]六月に至りて、[[瀬戸口藤吉|瀬戸口幸吉]]を指導嘱託として聘し、目下専ら其の指導の下に練習しつゝあり。 </blockquote> |
== 出典 == | == 出典 == | ||
学習院『開校五十年記念学習院史』秀英舎、[[1928年]]([[1928年|昭和3年]])。NDLJP:[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464150 1464150]。 | 学習院『開校五十年記念学習院史』秀英舎、[[1928年]]([[1928年|昭和3年]])。NDLJP:[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464150 1464150]。 |
2017年11月8日 (水) 22:40時点における最新版
『開校五十年記念學習院史』(かいこうごじゅうねんきねんがくしゅういんし)とは、1928年(昭和3年)10月18日発行。の旧制学習院の沿革を記した書である。
音楽部についての記述
pp.327-329
設置以前の狀態
輔仁會會員中の音樂同好者より成る、音樂練習を目的とする小團體は、古くより屡組織せられたれども、會員中の有力者卒業すると共に頓挫を來し、自然消滅して永續したるものなかりき。大正十二年度に至り、編纂部を文藝部と改稱し、音樂繪畫に開する事業をも併せ行ふ事となりたるは、右の如き事情の爲に、發達を遂ぐる事を得ざりし會員の音樂團體に、保護を加ふると共に、一般會員の音樂に關する趣味の普及と、知識の振興とを計ら んとするものたりしは勿論なり。其の後多數會員の要求を容れて、大正十三年四月に至りて、始めて獨立の一部 として、音樂部の新設を見たるが、爾來各種の事業を行ふと共に、其の設備の充實を計り、以て漸く發達の緒に就く事を得たり。設置以後の狀況
音樂部新設以來の狀況を略述すれば、新設の年に行ひたる行事の主要なるものは、洋琴家バルダス氏を招聘して、公開演奏會を開催したる事にして、當日の聽衆四百名に達し、極めて盛大に行はれたり。翌十四年には各種の計畫を立てゝ、彌本部の活動を開始するに至りたり。卽ち五月五日には、音樂に開する知識の普及に資せんが爲に、第一回レコードコンサートを催し、同月二十三日には提琴家ビルウスキー氏並に洋琴家ヂョンゲン氏の公開演奏會を行ひ、次いで六月十三日には、故三條實憲氏追悼一音樂會を行ひたり。此の日に久邇宮邦英王殿下並に李鍝公殿下も出演せられたり。かくて此の年度に本部の設備も漸く成り、蓄音機・ピアノ・ヴアイオリン・ヴヰオラ・セロ其の他の管樂器二三を購人し、茲に始めて組織的なる練習を行ふべき機關の備はるを見たり。大正十五年二月には客員岩井貞麿の斡旋によりて、陸軍戸山學校軍樂隊の演奏行軍の目的地を本院校庭とする事とし、五十名より成る軍樂隊と、二十人より成る喇叭隊との吹奏数曲を聽く事を得、翌三月二十四日には、有志者三十名戸山學校に赴きて練習の見學をなしたり。次いで五月十八日には、第二回レコードコンサートを催し、また十月二十四日には、本院出身の提琴家福井巖の演奏會を行ひ、秋季輔仁會大會當日には、始めて本部員の演奏を公開して好評を博したり。音楽部員の指導には、初め助教授小松耕輔、部長として共の任に當りしが、管絃樂の練習を開始するに至りて、星出陸軍戸山學校樂長補の指導を受け、更に昭和二年六月に至りて、瀬戸口幸吉を指導嘱託として聘し、目下専ら其の指導の下に練習しつゝあり。